エスノグラフィはおもしろい ──血の通った文章を書く”あるひとつの”方法
エスノグラフィという言葉を知ったのは昨年のことで、石岡丈昇さんの『タイミングの社会学』(青土社)という本の副題に「ディテールを書くエスノグラフィー」と書かれていたのがその始めです。この本に読むことができたのは私の人生にとって僥倖と呼ぶしかない幸運な出会いでした。本当におもしろかったのです。
エスノグラフィについてこのように書かれています。
エスノグラフィーとは、調査者が対象世界──フィールドと呼ばれることが多い──に分け入り、そこで長期にわたって過ごしながら、その対象世界の成り立ちや居住する人々の生活について記述する研究方法である。また、こうして生み出された作品そのものをエスノグラフィーということもある──石岡丈昇『タイミングの社会学』
『タイミングの社会学』では、フィリピンのマニラのボクシングキャンプにおけるボクサーの生活やスラム街の立ち退きなどの事例を詳細に記述し、貧困の実際やその背後にある構造的暴力の存在を露わにしています。突然試合が流れてしまう(あるいは決まる)ボクサーや、いつ住居が取り壊されるかわからない状態で生活を送らざるを得ない住民たちの直面する現実の詳細な記述を読むことは、今まで抽象的な概念として存在していた貧困という言葉が肉付けされるような体験でした。
エスノグラフィーのおもしろさを教えてくれた石岡さんがこの度『エスノグラフィ入門』(ちくま新書)という本を出されます。大学生のときにエスノグラフィの虜になった石岡さんがエスノグラフィの魅力とその意義について、優れたエスノグラフィの作品を織り交ぜながら著述された入門書です。ぜひ本を読んでいただきたいと思いますが、次の文章がとりわけ印象に残り、またエスノグラフィの本質的な特長の一つであると思いました。
エスノグラフィは、時間をかけることができるからこそ、ありふれた「生活を書く」ことが可能になっているとも言えるでしょう──石岡丈昇『エスノグラフィ入門』
エスノグラフィが記述するのはすでにあるありふれた日常生活です。一回限りの歴史的事件などとは異なり日々繰り返されるからこそ、時間をかけて何度もそのフィールドを訪れる必要があると書かれています。この「時間をかけることができる」ということが難しい社会だと感じます。刺激的なコンテンツが溢れ、注意は散漫に、時間は細分化されてしまっています。そのような状況で、じっくりと時間をかけて書かれたエスノグラフィを読むと「本当のことだ」という安堵の感情を覚えます。ぐっと安心します。同じく社会学者の岸政彦さんの表現に「切ったら血が出る」という言葉がありますが、「本当のことだ」という感想はそれと同じことなのだと思います。もちろん「本当のことだ」と思うような体験は他にもあると思いますが、エスノグラフィは世界に血を通わせてくれる一つの方法です。
今回のイベントでは、石岡丈昇さんと岸政彦さんにエスノグラフィの面白さとその意義について語り合っていただきます。エスノグラフィという言葉がはじめましてという方もぜひご参加いただきたいです。きっと世界の見方、距離感がかわる時間になると思いますし、さまざまなエスノグラフィに触れるきっかけになれば嬉しいかぎりです。ご参加をお待ちしております。
<登壇者プロフィール>
石岡 丈昇(いしおか・とものり)
1977年、岡山市生まれ。専門は社会学/身体文化論。日本大学文理学部社会学科教授。フィリピン・マニラを主な事例地として、社会学/身体文化論の研究をおこなう。著作に『エスノグラフィ入門』(筑摩書房)、『タイミングの社会学――ディテールを書くエスノグラフィー』(青土社、2023年、紀伊國屋じんぶん大賞2024第2位)、『ローカルボクサーと貧困世界――マニラのボクシングジムにみる身体文化』(世界思想社、2012年、第12回日本社会学会奨励賞。2024年に増補新版)、共著に『質的社会調査の方法――他者の合理性の理解社会学』(岸政彦・丸山里美との共著、有斐閣、2016年)など。
岸政彦(きし・まさひこ)
1967年生まれ。社会学者。著書に『同化と他者化――戦後沖縄の本土就職者たち』『街の人生』『断片的なものの社会学』(紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞)『ビニール傘』『マンゴーと手榴弾――生活史の理論』『図書室』『地元を生きる――沖縄的共同性の社会学』(共著)『大阪』(共著)『リリアン』(織田作之助賞受賞)『東京の生活史』(編書、毎日出版文化賞、紀伊國屋じんぶん大賞2022受賞)『生活史論集』(共著)『沖縄の生活史』(共編)『にがにが日記』など。
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